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  ホーム健康講座>健康中級講座---1・健康(1-3復習/蛇足)
健康初級講座
健康中級講座
1・健康
1-1健康の定義
1-2定義への反論
1-3復習/蛇足
1-4「健康な姿」
1-5「健康な姿」への
   提案
2・栄養
3・生活習慣と免疫力
4・食生活の現状
5・食生活への提案

健康中級講座---1・健康

1−3 復習/蛇足
以下のこの項は、前述のお二人の英知の見解の「復習」または「蛇足」的な連想にすぎません。御用とお急ぎの方は、どうぞご自由にご退席ください。・・・・では、少々おもはゆいけれど話をつづけます。

■忘れえぬ言葉
健康や生命のことについて考えると、若い日の忘れえぬ言葉と光景が想い浮かびます。ひとつは、小学生の頃のことです。ある日学校から帰ると、小春日和の縁側で、親戚の伯父と祖母が楽しそうにお茶を飲んでいました。彼は、乾燥させたワラと枝つき大豆を一つに束ねたものを手にして、これは「何だと思う」と私に尋ねました。「物を燃やすときの焚きつけ」と答えると、彼は、「“笑”って“まめ”に暮らすオマジナイ」と応じ、三人で笑ったことでした。

■ユベナリス
もう一つは、薬大でのラテン語の授業です。作家・谷崎潤一郎の甥の講師から、古代ローマの詩人、デシムス・ユベナリス(Decimus Juvenalis, 45〜125)の詩集を学びました。その一節の「健全なる身体のうちに、健全な精神を宿らしめたい」(mens sana in corpore sano)という願望詩が、「健全なる精神は、健全なる身体に宿る」と断定文に誤訳され一般に伝えられたことを知りました。その後、ユベナリスの全集が国会図書館にあることを知り、いつか読もうと思いつつ今日に至っています。

■ころがる「まめ」
「まめ」という言葉は、周りにひかからないでコロコロ転がる豆のように、本来、切りはなすことのできない心と体が一つになって、心から体、また体から心へとスムースに動いてゆく姿(状態)をいったもので、禅の言葉の「身心一如(しんしんいちにょ)」、身心は一体であることを、やさしく表現したものといわれています。この姿は、個人の健康感で、健康である「姿」、健康な「姿」を自分に重ねた、自然で、素朴な、そして真理を含む健康観であると思います。

昔から、わが国の人々が「豆」の転がる姿によせた気持ちと望みも、ユベナリスの、だからきっと古代ローマの人々の思いと願いも、同じようなものであったと思います。

WHOの健康の定義の制定にたずさわった人たちも、ユベナリスの詩を知っていただろうと思います。定義中の「社会的」という言葉は、もともと、ユベナリスの願いに、また、わが国の「まめ」という表現の中に当然含まれていた周りの人々とのよい係わりを言いかえたに過ぎません。またユベナリスの願望も、「まめ」という健康観も「完全」を求めてはいません。

■生也不可思議
ライフサイエンスにたずさわる者として、大切にしてきた禅の言葉があります。
一つは、「生也不可思議」(生や不可思議)という言葉です。人間の生命、人間として生きていること(人生)は、思議(言語、文字、概念などの知識)で把握(理解)することは不可能であり、体験(実践)し自覚してとらえるものであると断言しています。

科学は、数量化できる客観的なデーターを集め、蓄積されたデーターを説明するモデルと理論を築くことで発展してきました。したがって、数量化できない部分はその枠の外に置かざるを得ません。数量化できない最たる部分が、私達の主観的な体験、つまり「生きてゆく」うえで、自らが日々感じる質感(クオリア)です。

たとえば、京都で満開のしだれ桜を観たとします。その時、感じたその質感、テイスト、フィーリングは数量化でません。でもそのクオリアは、その桜の前でたたずんだ人に実在したのです。しかもその実在は、「グッドタイム」として生涯にわたり記憶されるのです。

「あなたは、今生きていますか」と問われたら、だれでもイエスと答えます。しかし、「今」と思った時は、実は、もうすでに過ぎ去っています。今という瞬間を、今、今・・・と、どんなにスピードをあげて追っても、とらえることはできません。まさに、生や不可思議なのです。別の言葉でいえば、「生やファジー」です。それゆえに人生はインタリスト、面白く興味深いのかもしれません。

健康を考えることは、生命・人生を考えることですから、健康もまた、不可思議の対象です。「科学する」とき、生命の真実は科学だけでは思議できない、つまり「生也不可思議」であることを前提に、科学の限界を自覚して、「科学する」姿勢を大切にしてきました。弊社の研究開発のモットーが、「寛容に豊かに科学する」である所以(ゆえん)です。

■生也全機現也
もう一つは、「生也全機現也」(生や全機の現れなり)という言葉です。
「機」は物事の主要・根源・機会、からくり、変化、兆候、動き、働きなどの意味があります。まとめて言いかえれば、動いて止まない現象(現実)、動きつつある様子(姿)を意味する言葉です。「全機」は全てがひとまとまりになって、時々刻々動きつつある「姿」のことです。

先に述べたように、個々の現象の分析をいくら重ねても、真の生命の現象をとらえることはできません。個々の人間の生命・人生の現象をとおし、全機的な真の人間の生命・人生の把握を心がけるよう、みずからを戒める座右の銘のひとつです。

■WHOに感謝
そんな立場から見れば、WHOの健康の定義はいずれ改正される日がくるであろうと思います。
人も組織も社会もダイナミックに生存する中で、何らかのグレーの影をもっています。それを寛容することも、時と場合によっては必要な智慧かもしれません。

WHOの健康への「理想という幻想」を述べた定義はともかくとし、WHOの健康の憲章を貫いている理念(精神)をふまえて活動することは意義のあることと思います。なぜならWHOは多くの研究を支援し、人類の健康に貢献していることは事実であるからです。              




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